輪廻転生-神←だけは必ずお読み頂ければ幸です。後は最新の章から読まれていき、第一章にたどり着かれれば、望みを叶え完全にあなたを救って見せます。
後悔こそ無為
あなたは、この世に輪廻転生をしてきたときから、鬼籍に入るまで、何度も後悔を重ねる。何度後悔して、二度と踏み外さないと決めても、同じことを繰り返したり、違う過ちを行う。
後悔する時間は、その元となる過ちの時よりも無駄な時間であることを知っているでしょうか。
過ちを行っている間は、少なくても藻掻き前に進もうと足掻いてはいる。けれど、後悔の時は、後ろにしか考えも足も向かない。ただ、そこに留まっている。ただ無為な時が流れている。
臍を噛む思いになるとは、後悔という無駄な時間に引きずられていくことで、後悔をすることが無い人生は、なかなか難しいけれど、過ちは思いもせずに犯すこともあれば、引きずり込まれることもあるので、過ちを犯さないように、常に己を打守ことが大切です。
過ちの次の後悔の次の前へと進む。この流れの中で、過ちに関しては、打守することで、かなり減らすことが出来る。
打守とは、ある意味に自分を見守ることになるのですが、これによって過ちは減り、次の後悔になりますが、これを止めることです。
後悔は何の役にも、誰のためにも立たないからです。後悔を止めて、反省をしながら前へ進むことです。
今、後悔をしていても、それはいずれ後悔することでは無かったと知る日が来ることもある。後悔を恐れるなかれ。後悔は無為とはこのことである。中途半端にしてしまうほうが、後で、辛い思いをすることを忘れてはならない。
人は過ちを犯すと、己で己に義憤を浴びせかける。しかし、そこで止まり、前に進まない。強い憤りを感じた者は、己を責めて、誰かに助けてもらおうと考える。
しかし、俗世の痴者たちは、他者を助けることを知らない。助けるどころか、それまで友人として、一つのグループに属していたとしても、過ちを犯し堕ちていくものを、グループからはじき出し、部屋の鍵まで変える。
裏切ることは、痴者の常で在り、そのような者は常に、甘い蜜の話をしては、自分が行わずして、あなたに試しにやらせてみて、成功すれば、横取りするように同じことを行い、あなたの前を歩く。
あなたが失敗をすれば、あなたのやり方に問題をすり替えて、次の甘い蜜をあなたに囁く、あなたも痴者だとしたら、また、それを始めてみる。
真に勇敢な智慧者は、他者のために己が犠牲になることを好んで行う。己が、紛れもなく勇者であることを知らないから、犠牲を払い、勇者になろうとする。でも、その者はすでに勇者なのです。
生きる、生きている、このことを考える者がいる。それは、あなただろう。そして、当たり前のように、そこに「なんのために」と付け加える。
でも、ここに来て各章を読み学んだ者は、なんのために、をすでに知っていて「そのために」という言葉を、頭に浮かべる。
ある意味において、輪廻転生してしまった、と言っても過言ではないでしょう。輪廻転生など、したくなかった、このように考えても不思議ではありません。
でも、輪廻転生をした。だから、今を、生きている。生きているから、苦しみも沢山味わうことになる。生きているから、天国への道も歩ける。
天国へ行けば、神となり、もう、二度とこの世に輪廻転生をすることもなく、苦に出会うこともない。
この今を生きている、空があり、風があり、光があり、暗闇がある。この中で、いかに生きるか、これが最も重要なことで、子供たちが、試験の点数や、かけっこの速さを競い、大人たちが、貯蓄や地位や名誉を競い合い、人はつまらない競い合いで、人生を終わらせることになる。
人は必ず、年を取り、鬼籍に名を残すが、正しい生き方、真理を知る者は、僅かにしか生まれては来ない。
ここで考えてほしいことは、生きること、生まれてきたことは、運否天賦などという御伽噺ではないという事、そんなことで人生の紆余曲折があるのではないという事。
諺の多くは、その時代に名を馳せた者の言い草に過ぎない、その他にも沢山ある、あなたも、つい使って逃げようとする「情けは人の為ならず」よくこのような言葉を創ったものだと感心するほかない。
それを言うのならば「情けは己の犠牲を払うので損をする」と、正直に言っておくべきだったでしょう。
他者のために何かするときに、己の犠牲を払わないのなら、それは、己であるあなたにとって、何の施しにも、何の役にも立たず、神の七つの掟を行ったことにはならない。
私が、何度も言ってきたことに、慈善団体等への寄付について、その寄付をしたあなたのお金が、どのように使われようとも、その使い道が、世界の貧しい国の子供たちにワクチンを、寄付されたお金で配ると書かれていたから寄付をした。
寄付をした後のことを考える、寄付をしたお金が本当にワクチン購入に使われたかを考える、このような疑人のような行為は、行ってはならないと。
寄付をした後に、寄付をさせていただいたことに喜びと幸福を感じさせて頂けるのであるから、そのお金が、慈善団体の職員の酒代や衣服に代わったりしても、何を、言う必要があるのかと。
寄付する者が裕福で、寄付されるものが貧しいのではない、真の裕福とは心のことであり、財などではない。
ここに来ている若者の一人が、持っていた数百万円のお金を、困窮する者に渡した。その若者は、全ての財を渡した後に、このように言った。
「お金が無いっていいですね」この言葉には、この若者の真実心が込められていた。お金が無いっていいですね。
何年も工場で働き、一生懸命にためたお金なのに、ここへ来て、私の話を聞いて、困窮者に貯金の全てを投げ出した。
そして、お金が無いっていいですね。
あなたは、禍福は糾える縄の如しという言葉を知っているだろうか、この言葉の真の意味は、福をもたらしたと思ったら、災いがやってきたということですが、この若者の行為は、福を困窮者に齎し、己は、災いとして財産を無くした。
と言いたいところだが、この若者は違った。金の光より仏の光、財産が無くなっても、仏の光を受け取ることが出来たことは、悟りを啓いたことと同じであることを、いずれ知ることとなる。
このように生きる者には、人生の小さい後悔などどうでもよいことであり、鬼籍に名を遺すときには、後悔どころか、天国にいることになる。
神の七つの掟
■ 騙さない、悲しませない、心を傷つけない
■ 親切にできる時を逃さない
勇気で言葉を「私に何か助けさせて下さい」
■ 動物を食べない
■ 罪を犯さない
■ 恩と責任・恩に報いる
■ 我慢
■ 奉仕と施し
神の化身より:神の七つの掟だけを行い、聢と、あなたが天国を選択し天国に行くのです。お金や宗教など天国にはなく、それらは甲斐無いのが天国なのです。
七つの掟は、どれをとっても難しいことではないはずです。但し、困難です。困難でなければ過去世までの「償」の輪廻転生はないわけです。
(神の化身の代筆者です。代筆者とは神の化身が私たちのいずれかに降りて来られて書いている者です。相談があれば相談フォームよりご連絡お願い申し上げます)
私は同じ話、同じことを何百回も言います。
神の化身