軋轢:第二百九十四章

輪廻転生-神←だけは必ずお読み頂ければ幸です。後は最新の章から読まれていき、第一章にたどり着かれれば、望みを叶え完全にあなたを救って見せます。

 

軋轢

 

軋轢

あなたと誰かとの間に、軋轢が生まれた時、いつかそれが溶けて、不和すらも互いに思い出となる。

あなたは全ての人を思いやる人とならなければならない、そして、全ての人に対して、神の七つの掟の行為を行わなければならない。

七つの掟の行為を行う者は、地獄にしか住処は無いなどと言うことは無い、しかし、神の七つの掟を行わない者は、残念だけれど、棺の中のあなたは、自分で地獄を選び、そこを住処とする。

流謫のように流されてはならない、犯した罪は取り返すことが出来る、但しここに来てから、三度までだ、ここに来て、神の七つの掟を守りながらも、罪を犯してしまうこともあるだろう、しかし、それは三度までは許されるが、それ以上は許されることは無く、流謫となり地獄へ行き着く。

己を今知ることが出来ない者は、単なる愚か者でしかない。そのような者となっては、あなたの善行は、見せかけだけのものと、愚禿と言う言葉が適しているだろう。

あなたは三度までの悪行と言う行いに、己の愚かさを痛感することだろう。しかし、それらに対する葛藤苦悶をへて、あなたの善行は、新たに揺らぐことは二度とは無く、始まることを知りなさい。

あなたが誰かを騙して、相手との間に軋轢が生まれようとも、その謝罪の念を込め善行を行いなさい、直接に相手ではなくても誰でもいいので、神の七つの掟を行う事で、あなたの三度目までの罪は許される。

 

神は三度目までは許される

あなたは善人になろうと努力するが、その努力にあなたは一度は必ず空虚することになる、しかし、この空虚こそが、あなたを育て、あなたを、あなたが望む善人へと導くこととなる。

俗欲に負けてはならい、甘い悪蜜を舐めてはならない、なすべきこと業の肯定があるのだから。

他者のために生きない者、犠牲を払わない者は、安楽の地である涅槃に入ることは出来ない、天国と涅槃は違うけれど、両方ともに安楽の地であることに変わりはない、だから、まずは他者の為に行為を行う事、犠牲を払うことに全身全霊で取り組むことです。

果てしない空と同じように、神の掟を肉体と言うものが滅びるまで行為として続けなければならない。それが、善行者の道であり、それは本当に簡単なことなのです。

人は、人だけではなく社会通念に諍ひ者もいる。何が正しく、何が誤っているのか、それについて三省することを忘れてしまうから、人々を簡単に傷つけることが出来る。

愚直に対して、堅固であれとまでは言ってはいない。それに近づく努力は惜しむことがあってはならない。

人との間には、必ず、異見が生まれるのだから、その時何をするべきかは、すでにいくつかの章で話しているので、忘れている者は、読み直すことが良い。

一応、ここでは簡単に言っておこう、人の話に口を挟まず、遜り聞いてから、その後で、それを吟味し精査して、相手が納得できる答えを見つけるまでは、多少の時間はかけてもよいので、考えてから、相手が間違っていれば、相手が決して傷つくことが無いように話せばよいのです。

相手を傷つけたり悲しませるような、あなたの話す相手への異見がそのようであってはなりません。

 

群居本能

自彊の甲斐があって、あなたの思いが叶うというのは、どれだけの犠牲を払い、人々に幸福を与えたことかということになる。

あなたには何度も話していることだが、この世に幸福も無ければ、満たされることも無い、幸福と思った瞬間から、後は落ちていくばかりであり、満たされたと思うと、それは、どこかから漏れ始める。

そして、また、自分勝手な幸福と満たされることを追いかけて、あなたの人生が終わりの時を迎え、あなたの時計の針は止まるのです。

本来ならば、困窮であっても、病に陥っていても、そこに肯定的であり積極的な価値を見い出さなくてはならない。

この世の幸福は、他者の為に何か善いことが出来たときに与えられるもので、そこに物質的なものが己の手に入るなどと、考えてはならない。一生辛い思いをするだけだから。

あなたが愚か者であれば、誰かの意見を聞くだけで、自分と違えば不快に思う。しかし、ここで大切なことは、では、あなたが不快に思わない場所は、どこにあるだろう。

それは、山奥に一人でいるか、離れ小島で一人でいること以外には、あなたが不快から解放されることは無い。

しかし、不快は簡単に瓶に詰めて蓋をして、二度とあなたの前には出て来ないようにする方法は、思いやりを常に持ち、相手の意見を聞いて差し上げることです。前文にも記したように、相手の話に即答できるほど、自分自身の頭は良くない。そう思って話を聞いてから、相手が傷つかない、答えを導くのです。

 

群居本能というもの

人の心中には、社交不安症などの病を持つ者は別として、群居本能があり、山奥に一人でいることも、離れ小島に一人でいることもできなくなっている。

たとえ山奥や離れ小島でも、誰かが訪ねてきたりするから、精神的な病に墜ちることなく、そこに居られるのです。

群居本能こそが、本来正しいことを行うチャンスをくれているのに、自らその中で、楽な方、悪い方へと行く者が多い。簡単に嘘がつけるのも、同じ理由から来ている。

嘘などついては、愚か者になるばかり、群居本能のあるあなたなのに、周りがあなたから離れていくことを知ることになる。

あなたは、自分の考えに異を唱える者は、世の中の厭世と捉えてみているが、あなたこそが、世の中の者から厭世と侮蔑されているのです。

だからと言って、俗世から逃げて隠棲と暮らすというのなら、本当の愚か者と言う以外にはない。

あなたより、苦しい人たちは沢山いるのです。それらを助けるためには、俗世に居なければならないのです。俗世にいてはじめて、他者の為に何かが出来る者と必ずなるのです。

 

神の七つの掟

■ 騙さない、悲しませない、心を傷つけない

■ 親切にできる時を逃さない
勇気で言葉を「私に何か助けさせて下さい」

■ 動物を食べない

■ 罪を犯さない

■ 恩と責任・恩に報いる

■ 我慢

■ 奉仕と施し

神の化身より:神の七つの掟だけを行い、聢と、あなたが天国を選択し天国に行くのです。お金や宗教など天国にはなく、それらは甲斐無いのが天国なのです。

七つの掟は、どれをとっても難しいことではないはずです。但し、困難です。困難でなければ過去世までの「償い」の輪廻転生はないわけです。

(神の化身の代筆者です。代筆者とは神の化身が私たちのいずれかに降りて来られて書いている者です。相談があれば相談フォームよりご連絡お願い申し上げます)

私は同じ話、同じことを何百回も言います。

神の化身