地の底まで落ちる:第二百三十一章

輪廻転生-神←だけは必ずお読み頂ければ幸です。後は最新の章から読まれていき、第一章にたどり着かれれば、望みを叶え完全にあなたを救って見せます。

 

地の底まで落ちる

 

空

私の話したことを読んでみても、次に行う事は何か分かっている者が少ない。次に行う事は、心の中で再読することである。再読なくして心に積み重ねていくこと、行いの整理をすることはできない。通読を一つ一つと重んじなければならない。

だからと言って、読むだけで善行と言う神の七つの掟を行為として行わなければ、読んだ意味も無く、それならば、読まずに、神の七つの掟を行為として行う者の方が、正しい道を歩いていることとなる。

人のためにと言っても、それ謀ることなければ、あなたは行いを達成させることは、この世ではない。

落ちそうなときには、地の底まで落ちる最低地変まで落ちることが最良のことであり、最低地変まで落ちれば、ほんの少し善という崖を登ってみたとしても、非常に上りやすく、善人への道を外すことは、もう二度と無いといえるでしょう。

善へと昇ることは、あなたに瞬時に喜びというものを与える。だから、喜びが右の手の上の岩に掴まれば、喜びを感じ、左の手が、その上の岩を掴めば、喜びを感じ、登り付くまでに、つまらない不徳な行為を行う気持ちにもなれなくなる。

落ちたくないと途中まで、爪がはがれ血が流れても、途中で食い止めた者を、可哀そうだと思いながらも我に力なく、我はただ登るだけである。そこから怪我の治療に専念している者に何も言えないまま、我の思いを謀らず我は頂上へ辿り着く。

落ちるのを途中で止めた者には、痛み止めという酒が撒かれ、それに酔いしれ、ふたたび登る気持ちは萎えてしまう。だから、助けることが出来ないが、登り切ったら必ず、その者たちにロープを降ろしてこそ人と呼べる。

いつも落ちてはならない、落ちないための行いに己の人生をかければ、生涯に措いて愛というものを持ち続けることが出来る。

あなたに聞きたい、眠ろうと横になったとき、発する言葉はあるだろうか。

「よかったー、やったー」「なんとかやった」または無言・不安等々の、日々がどのように、どの言葉が、横になった瞬間に、あなたの胸を頬の緩みをむかえているのだろう。

ここに始めて来た者は、人生に絶望した者、己に絶望した者であっても、そこからは少なくとも数日で抜け出している。

「よかったー、やったー」「なんとかやった」は、神の七つの掟をできた時に、つい口から出る言葉なのである。

その為に、賭して話しているのだから、最初に言ったように読み流すことなく、再読し話を心の中に打ち付けていなければならない。または、読まずにいて、読む時間を惜しんで、神の七つの掟を行為として、困っている者を助けるのです。

 

空は貧しい

悟りについては以前に話しましたが、無益な智慧は不要よりも悪を生み出す。己自身をよく見せようと間違った胸の張り方をする。

悟りに必要なのは、慈しみに溢れた心である。それは、誰にでも精一杯の思いで助けるという賢い心である。

この悟りの心を持てば、落ちることはもうない。落ちることに慄いていてはならない。落ちることは、摂理と思う事である。

しかし、己のことは一張一弛と寛容であり厳しく先んじていなければ、ただ甘えるだけで、泣けばすむと思う者となる。

悟りの心は過去章でも話していますが、よく考えてみれば分かるように、人を何かの基準に当てはめたりせず、単に、ただ単に、他者だから助けるという、至極簡単な心があればよいことなのです。

これが、悟りであり本来の智慧であり、智慧者とは違うのです。

悟りを啓けば、己を含め全てが空と話す宗教者が多くいる。それは大きな間違いであり、空などは一切ない。

空でありながら、一時的なものと話す者がいる。一時的とはさて、何の尺度で時間を見ているのであろう。

空とある意味は何か、無いという事である。けれど、あなたの目の前に置かれている物を見てみれば、見るという限りには、空はなく、色がある。色があるから、存在しているとわかり、色が存在す限り、物には色があり、空などというものが無いことを教えてくれる。

それを一つの宗教ではどのように説いているのかを見るときに、簡単にわかり易いのが、五蘊という仏教の教えの言葉である。

これを見れば、空となすと、色、想、受、行、識、この五蘊には違いがある。

今日、何のために、このようなことを話しているか、それは、宗教に塡まりすぎている者の下記の、手紙にある。
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神の化身様

神の化身の教えを読む限り、なぜ、人のために生きなければならないのか、自分のために生きながらも、それが、少しだけ人のためになればよいことであり、人のために生きるのであれば、生きている意味が無いと、私の信仰する○○○では、教えられています。
神の化身の教えは確かに正しいけれど、自分のために何かを行わなければ、その意味が無いのです。
物事は繰り返し変化して、それが人として空となるのです。神になることなどありません。すべては、無となるだけなのです。どうか、神の化身におかれましては、人が空と無になることを教えていただきたい。
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お手紙ありがとう。

 

空について

今回は、この手紙にお応えするために、上記の方で話をさせて頂きました。

さて、この者の言われることは、私がここで説く必要があるでしょうか。ここに来て私の話を聞き、その者の上には「空」があるということであれば、それに間違いはない。

但し、空は在るといわれるのですから、有る在るというものは必ず無いものであること、空ではないという事を話されていることを、宗教の派によるものがあれど、空はあるものであり、この世に無いというものは、無いことを話されている人もいる。

私にとって、この世で尊ばれることなど不要であり、必要な人に話している。そう、それがあなた方であるのです。

あなたは、空ではなく、尊ぶ色を持ち今の世に輪廻転生してきているのです。この教えのように空が目的であったり、空が結果であったり、行う事と存在することが「空」であるならば、あなたは何のために「空」なのでしょう。

あなたが行う行為により、他者が行う行為により、心は識を持っているからこそ、感じるのであり、それらが「空」ならば、あなたの存在も、神の存在も、どのようにすればよいのでしょう。

悲しき人は今何を思うのでしょう。空であるならば、思い込むことも無く、悩むことも無い、空でないから、考えている八紘一宇のあなたは、全ての人を貴むられる人にしようとされているのです。

 

仏教は貴重な宗教

極限が空ならば、何を張三李四として俗欲を望まざるにして生きていられないことでしょう。

このような話をすると、いつも仏教徒の皆様方から、漫罵のごとくお手紙を頂くのですが、私の話は事実だけで、何も足してはいないのです。

私を、蹴踏のごとく踏みにじることは、あなたの信じる宗教の心に反することとなるが故に、できることならば、解き明かす者がいつか分かる日が来るとの思いで、気にされることはありません。

ただ、私は神の化身として、この世に降りたり上がったりと、大木の神が天国に早く来て欲しいと、望む者達に、そのお願に来ているのです。

私は、如何なる教えも、如何なる宗教も、その多くが信者を集め、布施を集めるためのものに、なってしまっていることを嘆かわしく慮りです。

ただ、信仰を持つこと、宗教に入ることは、決して悪いことでないことは、何十回も説いていますので、心弱き者は、何処でも良いので宗教に入りなさい。

最後に「空」とは面白い教えであります。しかし、色がある限り「空」は無いことが明らかであり、それでも、最初に誤って説いた惇朴であり崇められた至人の心の働きは鏡であることを、思わなければならず、それに手を伏せることは、この宗教に入らずとも行う事である。

 

 

 

神の七つの掟

■ 騙さない、悲しませない、心を傷つけない

■ 親切にできる時を逃さない
勇気で言葉を「私に何か助けさせて下さい」

■ 動物を食べない

■ 罪を犯さない

■ 恩と責任・恩に報いる

■ 我慢

■ 奉仕と施し

神の化身より:神の七つの掟だけを行い、聢と、あなたが天国を選択し天国に行くのです。お金や宗教など天国にはなく、それらは甲斐無いのが天国なのです。

七つの掟は、どれをとっても難しいことではないはずです。但し、困難です。困難でなければ過去世までの「償」の輪廻転生はないわけです。

(神の化身の代筆者です。代筆者とは神の化身が私たちのいずれかに降りて来られて書いている者です。相談があれば相談フォームよりご連絡お願い申し上げます)

私は同じ話、同じことを何百回も言います。

神の化身